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厳冬のエベレストに挑んだ男

  • 2011/03/22(火) 19:29:04

1973年(昭和43年)10月、世界最高峰エベレスト(標高8848メートル)の直下で日本の登山隊が悪戦苦闘していた。この登山隊の目的は、南壁(標高8千メートル付近にある高さ1000メートル近い岩壁)を攻略する事にあった。これまで南壁の登頂に成功した者はおらず、極めれば世界初の栄誉に輝く。当時、エベレストはすでに征服された山であり、ただ登頂するのではなく、新たなルートを開拓していく時代となっていた。


世界の登山界に燦然と輝くであろう栄誉を求めて、登山隊は並々ならぬ決意をもって南壁に挑戦する。だが、大自然はちっぽけな人間の努力を嘲笑うかの様に、厳然と立ちはだかるのだった。標高8千メートル付近では零下50度近い酷寒に晒され、風速30メートルの烈風も吹き荒れる。風速30メートルの風が吹くと、人間は立つ事すら出来ない。岩壁に沿って雪崩も度々発生し、それに巻き込まれてシェルパが1人死亡した。登山隊は極限の状況に追い込まれ、立ち往生した。この悪天候下で、巨大な氷壁を登るのは困難を極める。しかし、このまま敗退すれば、何のためにここまで苦労してきたのか分からなくなる。そこで、東南稜と呼ばれる一般ルートを使って登頂しようとの声が挙がり、南壁挑戦と並行しながら頂上アタックが決行される事となった。


この東南稜ルートに挑む登山者は2人で、当時24歳の加藤保男と言う青年も含まれていた。加藤は若くして、アイガー北壁、べッターホルン北壁、グランドジョラス北壁といった、ヨーロッパアルプスの数々の難所を征服した新進気鋭の登山家だった。長身で人並み外れた体力を誇っており、今回の遠征においても抜群の働きを示したため、このアタック隊に選ばれたのだった。性格は至って明るく、人に好かれる不思議な魅力を持っていた。内に激しい闘志を秘めていたが、細かいところには考えが回らず、やや無鉄砲なところもあった。


10月26日午前7時半、サウス・コル(標高7986メートル)と呼ばれる地点から、2人は頂上目指してアタックを開始する。14時30分、2人は8700メートル地点に達した。だが、ここで大きな問題が生じる。加藤は出発前に酸素ボンベをチェックしておらず、容量が不足している物を持ってきてしまっていた。帰路を考えれば、酸素不足になるのは目に見えていたが、それでも2人は頂上への挑戦を諦めなかった。そして、16時半、とうとう2人は世界の高みを極めたのだった。一方の南壁攻略隊は敗退に追い込まれていたので、この登頂は意義あるものとなった。世界の最高峰に立って、2人は感無量で手を握り合う。だが、夕闇が迫っているので、2人は30分ほどで頂上から下り始めた。


18時、2人は南峰(標高8700メートル)に到着するが、すでに闇は深まり、酸素も切れていた。加藤は酸素不足からくる視力減退と幻覚に苦しみ、危うく谷底に落ちかけた。このまま動いては危険だと判断し、2人は8650メートル地点でビバーク(緊急避難キャンプ)する事にした。これまでの登山史に、これほどの高所でビバークをした例は無い。酸素が極端に薄い上、冬間近のエベレストは、凄まじい寒気に包まれている。2人はガチガチと歯を鳴らし、永遠の眠りに落ちない様、お互いに声をかけ、手で叩きあい、必死に夜を明かした。10月27日午前5時、山肌にうっすらと日が差して来るのを見て2人は抱き合い、生きている喜びを全身で噛み締めたのだった。


この後、2人は下山を開始するが、極度の疲労と高度障害もあって途中ではぐれてしまう、そして、8200メートル付近でふらふらと彷徨っているところをシェルパ2人に救助された。だが、次第に天候は悪化し、またもやビバークを余儀無くされる。外は風速40メートルの烈風が吹き荒れ、4人は狭いテント内で肩を寄せ合い、震えながら酷寒の夜を明かす。翌10月28日を迎えても、悪天候は続いた。そこで4人は脱出を図り、ザイル(登山用ロープ)でお互いを結び合い、凄まじい吹雪を潜りながら、命からがら生還を果たしたのだった。2人の日本人は凍傷だらけとなっており、特に加藤の症状が重かった。加藤は日本の病院に空輸され、そこで集中治療を受ける事になった。加藤だけが凍傷の症状が重かったのは、先に酸素ボンベを切らして体が酸素不足に陥った結果であった。


加藤は凍傷によって、右手の指3本を第一関節から、足は土踏まずから先の部分、つまり両足指の全てを失う事になった。加藤はこの時「24年間付き合ってきた指であるから、切り離すのを見たい」と言って、局部麻酔だけで手術をする事を強く要請した。医者はそんなのは無理だと大反対したが、それでも加藤の意志は変わらなかった。手術が始まると加藤は脂汗を滲ませ、歯を食いしばりながら、自らの指が切り離されていくのを見つめていた。手術が終わる頃にはさすがに失神していたが、それでも「エベレストめ、ちくしょう!」とうわ言を言っていた。医者によれば、こんな凄まじい患者を見たのは初めてとの事だった。


加藤は13本の手足の指を失って、第四級の重度身体障害者に認定された。傷口が塞がってくると、加藤はリハビリを開始する。だが、両足指が無いため、重心が安定せず立つ事さえ難しかった。それでも加藤は諦めず、傷口が破れ、血を滴らせながらも懸命なリハビリを続けた。そして、1974年7月25日、8ヶ月半に及ぶ入院生活を終えて、退院の日を迎える。この時、加藤は家族の迎えを拒否し、ふらつきながらも自力で歩いて自宅に帰った。これほどの重症を負っても、加藤の山への情熱はいささかも衰えておらず、再び挑戦する日を心に誓って自宅でリハビリの日々を過ごす。エベレスト挑戦の日から1年半が経った1975年5月、加藤は復帰の第一歩として、北アルプスの竜王岳(標高2872メートル)の東面岩壁に挑戦する。加藤は足先に力が伝わらないから、腕の力だけで登っていく。そして、手足の傷跡から血を滲ませながらも、垂直な岩壁を登り切った。これで自信を深めた加藤は、さらに世界の高峰への挑戦を開始する。


1975年8月、アルプスの鋭鋒マッターホルン(標高4478メートル)登頂。1976年、インドヒマラヤの最高峰、ナンダデビィ(標高7816メートル)登頂。そして、1980年5月には再びエベレスト(標高8848メートル)に挑戦する。前回の挑戦時はネパール側からの東南稜ルートであったが、今回は距離が長く、より難度が高いとされるチベット側、北東稜ルートからの登頂であった。この2度目のエベレスト挑戦も加藤にとっては、波乱に満ちたものになる。最終キャンプが8250メートル地点と低かったのと、同行の隊員が遅れをとった事から8750メートル地点に達した時には、すでに午後19時20分となっていた。普通ならここで登頂を諦めるものだが、加藤は常人離れした気力の持ち主であり、遅れてきた隊員と別れると、闇が深まる中、単独で山頂に向かっていった。


加藤が頂上に到達したのは、なんと日没後の午後20時55分であった。酷寒のエベレストで、夜を迎えるのは非常に危険である。ぐずぐずしている時間は無く、加藤は証拠となりうる写真を撮った後、10分ほど頂上にいただけで下山を開始する。そして、加藤は8750メートル付近まで下ると、そこでビバークをした。もう1人の隊員も、加藤より幾らか下でビバークをした。この時の気温は零下30度で、2人は酸素も切らせていた。下のキャンプにいる隊員達は、2人の生存を必死で祈った。翌日、救助隊が向かうと、2人は衰弱していたものの、重度の凍傷には罹っておらず命に別状はなかった。加藤は前回のエベレスト登頂時にも超高所でビバークをしており、その時の経験が生きて、まだ余力を残していた。そして、加藤はネパール側とチベット側、両方のルートを制した初の登山家となったのだった。


加藤の挑戦は尚も続く。1981年には、ヒマラヤのマナスル(標高8156メートル)の頂にも立った。加藤は足先が無いため、かかとを中心にして歩く。平衡感覚を失いやすく、下りとなると他の隊員よりも遅れるのが常だった。だが、登りであれば、どの隊員よりも断然、早かった。1982年、加藤は厳冬期のエベレスト挑戦を表明する。加藤はこれまで秋、春のエベレストを征服しており、次に冬に挑戦して3つの季節を制する、そして、3度目のエベレスト登頂と相まって、2つの三冠を達成すると言うものだった。これが達成されたなら、世界的な快挙となる。だが、厳冬期のエベレストはジェットストリームが高度を下げて渦巻き、巨大台風並の風速50メートルもの強風が吹き荒れる。気温は零下50度以下、しかも風を受けると体感温度はさらに低下する。とても、人間が生きられる環境ではない。今回ばかりは余りにも危険であるとして、支援者から反対の声も上がった。


加藤はこの時、小さいが会社の社長となっており、婚約者も存在していた。それでも加藤の意志は揺るがず、必ず成功させ、生きて帰ると言明した。この頃、イタリアの超人的な登山家、ラインホルト・メスナーが登山界の記録を次々に塗り替えていた。加藤はこのメスナーに激しいライバル意識を燃やしており、厳冬期のエベレストを征服する事で彼の上を行きたいと言う思いもあった。日本を出立する日、加藤は、大事にしていたピッケル(登山用つるはし)を母に手渡し、父とは二度も握手を交わした。両親は、今まで加藤がこのような行為をした事が無かったので、面食らった。しかし、それ以外は、普段の加藤と何ら変わりはなかった。そして、11月20日、加藤はネパールへと旅立っていった。


1982年12月23日午前3時40分、エベレストの標高7900メートル地点から、加藤の単独挑戦が始まる。だが、厳冬期のエベレストの苛烈さは、すでにこの山を二度征服している加藤の想像をも超えていた。渦巻くような暴風によって、普段、岩壁に積もっているはずの雪は吹き飛んで固い氷壁が露となっており、加藤が四つんばいになって進んでも何度も突風で転ばされ、アイゼン(靴底に装着する爪)も無くしてしまった。さすがの加藤も、ここは一旦、撤退せざるを得なかった。そして、顔面蒼白になって、キャンプに戻ってきた。この頃、加藤と同じ目的を持っていたフランス登山隊も登頂を断念し、撤退を余儀無くされていた。ライバルであるメスナーも、ヒマラヤ山脈チョー・オユー(標高8153メートル)の厳冬期登頂に挑んでいたが、超人と称される彼ですら諦めて撤退していった。世界一流の登山家であっても、ヒマラヤの冬の厳しさには敵わなかったのである。


しかし、加藤だけが、まだ諦めていなかった。12月27日午前3時半、加藤は小林隊員と2人で、再び挑戦を開始する。午前9時過ぎ、加藤から通信が入り、8400メートル地点に達したと伝えてきた。午前11時15分、8500メートル付近に達し、近くに遺体(1979年の西ドイツ隊)があると伝えてくる。さらに小林隊員が遅れていると伝え、風が物凄く強いと言った。そして、加藤は自らを鼓舞するように「おーーっ!頑張るぞーーっ!!」と絶叫すると、再び登り始めた。午後14時、物凄く風は強いが、あと少しで頂上なので頑張ってみるとの通信が入る。加藤はこの辺りで小林隊員を残し、単独で山頂に向かった。しかし、それから長い時間、加藤からの連絡が途絶える。


午後19時50分、辺りは夕闇に包まれ、支援キャンプの隊員達に絶望感が漂い始めた。だが、その沈痛な空気を掻き消すように、加藤からの通信が入り始める。そして、15時55分に単独で頂上に達したと、伝えてきたのだった。加藤はこれで、エベレストの三冠王になったのだった。支援キャンプ内に、次々に歓声の声が挙がった。加藤の声は意外に元気であり、南峰(標高8763メートル地点)で、小林隊員とビバークしているとの事だった。この厳冬期のエベレスト登頂のニュースは、たちまち全世界に快挙として伝えられていった。午後21時、加藤から通信が入り、寒いが頑張って朝を迎えたいと伝えてきた。そして、翌朝7時に連絡する事を約し、おやすみと言って通信は終わった。


だが、この27日の夜、天候が急変する。エベレストを震わすように烈風が吹き荒れ、6650メートルのC2支援キャンプでは、突風によってテントごと人が吹き飛ばされた。支援キャンプの隊員達はあわてて、近くに放置されていた頑丈なテントに逃げ込み、なんとか全員、難を逃れる事が出来た。支援キャンプがある6650メートル地点でこの強風であったので、加藤達のいる標高8763メートル地点では、さらに強い風が吹いている事は確実だった。翌28日午前7時、この時刻に通信すると約束を交わしたにも関わらず、加藤からの連絡は無かった。シェルパが8千メートル付近まで登って2人を捜索したが、その気配は無かった。加藤がいた8763メートル地点では、風速は100メートル、気温は零下60度近かったと推測され、その生存は絶望視された。支援キャンプでは、これ以上捜索すれば二重遭難すると判断し、シェルパを撤退させた。


30日、支援キャンプは撤収作業に入り、最後の交信を試みた。隊員は「加藤さん、生きていたら知らせてください!」と絶叫した。エベレストは雲が渦巻き、凄まじい轟音を奏でるのみだった。加藤と小林はエベレストに消えた。加藤は三冠の達成、厳冬期の単独登頂という栄誉を掴んだが、その代償は自らの命だった。知らせを聞いて加藤の母は床に伏し、父はテレビに向かって泣き叫んだ。重度身障者の身になりながらも、挑戦心を決して失わなかった男、加藤保男、享年33。全世界の著名登山家が哀悼の意を述べ、その偉業を称えたのだった。


加藤保男の最後の講演  
↑心に響くものを感じます。是非、読んでみてください。


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エベレスト大量遭難事故

  • 2009/01/05(月) 21:39:41

1996年5月9日午後22時、ロブ・ホール隊と言う商業登山隊(ガイド3名・顧客9名)がエベレスト(標高8848メートル)登頂を目指し、サウス・コル(標高7985メートル)の高所キャンプを出発した。無風で気温はマイナス23度であったが、これでも暖かい方であった。5月10日、やがて夜明けを迎え、太陽が登山隊を照らし始めると、雲一つない澄み切った青空が広がった。ヒマラヤの峰々が連なり、地平線がゆるやかに丸みを帯びる荘厳な景色が見渡せた。この日は、絶好の登頂日和と思われた。


登山隊は8500メートル付近のバルコニーと呼ばれる地点まで到達したが、ここで登山隊の1人、ベック・ウェザーズが目の不調を訴えた。ベックは自力で下山すると言ったが、隊長のロブ・ホールはベックが不慮の事故に遭う事を恐れて「自分が戻って来るまで、この場を絶対に動かないでほしい」と言った。ベックはこれに頷き、この場で登山隊が戻って来るまで待つ事にした。登山隊は午後14時までに登頂を成し遂げると、再びベックと合流して高所キャンプまで下山する予定であった。しかし、午後14時までに登頂出来なければ、登山隊は山が暗闇に包まれる前に、キャンプまで辿り着く事が出来なくなる。そうなれば遭難の危険が増すと共に、エベレストで酷寒の一夜を過ごさねばならなくなり、人が生きて朝を迎えるのは困難となる。


ベックはバルコニーでずっと待っていると、正午頃、3人のメンバーが下山してきた。彼らはエベレスト最後の難所、ヒラリーステップと呼ばれる場所まで登ったものの、そこで登頂待ちの渋滞が起こっていたので、午後14時までに登頂を果たすのは困難だと判断し、下山してきたのだった。彼らはベックに一緒に下山しようと呼びかけたが、ベックは隊長ロブとの約束があったので、この申し出を丁重に断った。3人は手を振りながら、下山していった。ベックは尚も待ち続けていたが、午後15時になり、午後17時を迎えても、まだロブは戻って来なかった。太陽は西に傾きつつあり、それに合わせて気温も下がり始めた。そして、風が出てきて雪も舞い始める。


ベックは不安な面持ちのまま寒さに凍えていると、メンバーの1人が下山してきた。彼は「ロブは少なくとも後3時間かからねばここまで来ないが、ガイドの1人は後30分ほどでここまで辿り着く」と告げた。そして、「自分と一緒に下りないか」と誘ったが、ベックはベテラン登山家である彼の足手まといになることを気遣って、これを断った。それから30分後、他の登山隊であるフィッシャー隊メンバー5人とロブ・ホール隊メンバー2人が下山してきた。べックもさすがにこれ以上、ロブを待つわけにはいかず、彼らに加わると午後18時頃、合計8人で下山を開始した。山では上りより、下りの方が危険である。8人のメンバーは時折、足をすくわれ滑落の危機に直面したが、その度にピッケルを斜面に打ちつけ、何とか一番危険な箇所を脱出する。そして、サウス・コル(約8千メートル)まで到達した。


このサウス・コルの平坦な雪原を1時間ほど進めば、暖かいキャンプに戻れるはずであった。しかし、ここで8人は猛烈なブリザードに襲われ、まるで牛乳の中を彷徨っているかのような状況に陥った。風は秒速36メートルで吹き荒れ、気温はマイナス51度まで低下した。凄まじい烈風が吹き荒れ、信じ難いほどの寒気が一行を襲う。素人や玄人、体力が多い少ないの程度の差があって、8人揃ってこれ以上進むのは困難となった。そこで、まだ体力が残っている3人がキャンプを見つけ出して、そこから救援を出してもらってこの場に残る5人を救助してもらう事にした。3人のメンバーは何とかキャンプを見つけ出したが、ここで彼らの体力は限界に達し、再び5人の元へ向かうことは困難であった。そこで、キャンプで休憩中であったフィッシャー隊のブクレーエフと言うガイドが1人で5人の救出に向かっていった。彼は猛烈なブリザードを掻き分けて5名の元まで辿り着くと、ここで自らの顧客であった3人を救い出した。しかし、ロブ・ホール隊の2人(ベックと日本人女性、難波康子)は絶望的であると見なされ、その場に残された。


(後日譚)当初、このブクレーエフは3人を救い出した英雄と呼ばれたが、この日、ガイドとしての仕事を放棄して単独登頂を果たすと、顧客を残してそのまま下山して休憩していたので、後に非難の声も挙がる。だが、彼は翌年、エベレストを再登頂すると、サウス・コルで仕事仲間であったフィッシャーと康子の亡き骸を弔うと、康子の遺品を持ち帰ってその家族に渡してもいる。ブクレーエフは康子を救出できなかったことを非常に後悔していたらしい。1997年12月、ブクレーエフはアンナプルナ(ヒマラヤ山脈に属する山群の総称)で雪崩に巻き込まれて死亡した。


5月11日の朝、嵐が幾分収まると、残された2人を捜索するため、キャンプから救助隊が出立した。救助隊は雪原に、雪と氷に覆われたまま並んで倒れている2人を発見する。救助隊が2人の顔に張り付いた氷を剥がすと、虫の息ではあったが、呼吸を確認できた。しかし、2人共、低体温の昏睡状態に陥っていた。超高所でそのような症状が出れば、二度と目覚める事はないとされている。救助隊は間もなく死ぬであろう2人の救出を諦め、引き返して行った。酸素の薄い超高所で人間の体を運ぶのは大変な重労働であり、命の危険にも晒される。しかし、2人はキャンプまで後400メートルの距離に倒れていたとされている。キャンプまで運んで万が一の可能性に賭ける、またはその最後を看取ってやるという選択肢はなかったのであろうか?この後、康子は程なくして亡くなったと思われる。彼女の遺体は翌年、シェルパの手によってベースキャンプまで降ろされ、そこで夫が見守る中、荼毘に付される事になる。


11日午後16時頃、ベックの方は、奇跡的に意識が蘇った。彼の両手と顔は凍りつき、深刻な低体温障害も続いていた。しかし、救助隊が彼を助けに来る気配はなく、夕闇も迫っていた。その時、彼は死を覚悟したが、不思議と恐怖心は湧かなかった。ただ心の中に湧き上がってくるものは、もう家族に会えず、別れの言葉さえ言えないという圧倒的なもの悲しさだった。彼はもう一度家族に会いたいという一心で、残された力を振り絞って立ち上がった。彼は目もほとんど見えなかったが、おおよそのキャンプの位置を予想し、その方向に向かってよろよろと歩き出した。彼は何度も転び、幻覚に惑わされながらも気力でキャンプまで辿り着いた。この後、ベックは他の登山隊に付き添われ、自力で6千メートル付近まで下りると、そこからヘリに乗って病院に運ばれた。彼は凍傷で両手と鼻を失ったが、奇跡的な生還を果たし、家族と再会してその喜びを分かち合った。


ロブの方はどうなったのであろうか?5月10日、ロブは登山隊の1人、ダグに付き添って午後14時を回り、午後16時を迎えてもまだ登山を続けていた。ダグは前年、山頂まであと僅かという所まで来ていながら、撤退を余儀無くされていた。そのため、今回の登山に全てを賭けていた。彼はこの登山中、ずっと調子が悪かった。にもかかわらず、あくまで登頂に執念を燃やし、危険を顧みずに登山を続けていたのである。隊長のロブが何故、このような行為を許したのかは定かではない。その後、2人は登頂は果したものの、ブリザードに巻き込まれてしまう。ロブは力を使い果たして、動けなくなった様だ。こうなるとロブは、ダグをサポートして下山できる状況ではなくなった。ベースキャンプからロブに無線が入り、「こうなると辛い事だがダグを諦めて、君1人で下山しろ」と呼びかけた。しかし、ロブは、そのような行為が出来る男ではなかった。彼はダグに付き添って、山頂付近に留まり続ける。ロブは無線で「こちらは絶望的だ」と答え、救援を求めた。


ロブやダグより先に下山道を進んでいたガイドの1人アンディはこの無線のやりとりを聞くと、2人を救出するため、山頂に引き返していった。アンディは体調不良で下痢に罹っており、しかも登頂の疲労が残っていた。彼はそれにも関わらず、途中、立ち寄った貯蔵所で数本の酸素ボンベを担ぐと2人の元へ駆けつけた。ロブとアンディは鋭く尖った稜線から数時間かけて、ダグを下ろそうと奮闘した。しかし、その最中にダグは足を滑らせて滑落していったらしい。その後、ロブとアンディは南峰と呼ばれる地点まで下りてきたものの、アンディはここで体力と気力が限界に達したのか、突然、ブリザードの闇の中に飛び出して行くと、二度と戻る事はなかった。 1人残されたロブは、この酷寒の夜をなんとか生き抜く。だが、彼の体は動く事が出来なくなっていた。


5月11日の夕闇が迫ってくると、最早、ロブの救出は不可能だと判断したベースキャンプでは、彼の妻ジャンに電話をかけ、無線のロブと繋いだ。ジャンはこの時、妊娠中であった。瀕死のロブは気力を振り絞って妻と相談し、生まれてくる赤ん坊の名前をサラと決めた。夫婦の最後の交信が始まると、エベレストに居た人々は皆、押し黙ってそれを聞いた。

ジャン 「あなたは1人ぼっちじゃない、今、私のエネルギーを全部あなたに送っているわ」

ロブ 「愛しているよ。しっかりお眠り。僕の事はあまり心配しないでいいよ」

ロブは気丈に振る舞っていたが、交信を終えると無線からは、彼のすすり泣く声が聞こえてきた。夜の帳は降り、彼が次の日の朝を迎える事はなかった。


1996年5月10日、このエベレスト遭難では、ロブ・ホール隊で4名、他の隊で4名、合計8名の犠牲者を出した。



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伝説の登山家 ジョージ・マロリー

  • 2008/12/23(火) 20:14:07

ジョージ・マロリー(1886年イギリス生まれ、1924年エベレストを登頂中に遭難死)この人は「そこに山があるから」という有名な言葉を残した登山家です。私は少しばかり登山をしている事もあって、この人の事が気になっています。


(1953年5月29日)ヒラリーとテンジンがエベレスト(標高8848メートル)初登頂に成功する事から遡る事29年、1924年に、このジョージ・マロリーがエベレストに初登頂していた可能性があります。エベレストは登山家なら一度は挑戦してみたいと願う山ですが、人間が足を踏み入れるには非常に過酷な地であります。ここで、エベレストがどのような山であるか、説明してみます。標高7500メートル以上の高山では、酸素は平地の1/3となり、高山病(頭痛・吐き気・倦怠感・眠気・めまい)や肺水腫(呼吸困難・咳き込み)、脳水腫(無気力・精神錯乱・方向感覚喪失・昏睡状態)にかかるリスクが高くなります。また、超高所では紫外線も強烈で、そこで見る太陽は巨大な光の球の様に映るそうです。雪面は、その紫外線を反射するので、サングラス無しだとすぐに重い雪盲に罹ってしまいます。もし、サングラスを外して太陽を見つめたなら、10分足らずで網膜は火傷を負い、完全に失明してしまうのだとか。


エベレストではこうした高山特有の症に加え、滑落・雪崩・天候悪化による遭難などによって2008年の時点で、約200名の登山者が命を失い、また、その遺体を回収する事も困難な場所であるとされています。エベレストの頂上付近まで行くと、登山者の疲労と酸素欠乏は甚だしく、本人が動けなくなると、大抵そのまま放置されて死を迎えます。このような危険な場所では、ろくに動けない人間を担ぐなり、引きずるなどして、下山させる事は不可能に近いのです。エベレストには座り込んだままの姿で、疲労凍死した登山者の遺体が散らばっています。以上の様な条件から、7500メートル以上の超高所はデスゾーンと呼ばれます。このような高所では、休息をとったとしても体力の回復は進まず、むしろ長く留まるほど衰弱してゆき、それはテントの中であったとしても、そこに留まっている限り、人は徐々に死んでゆくしかないのです。高山病にかかっても誰も助ける事はできず、それでも助かりたければ自力で下山し、高度を下げる他ありません。


マロリーは、そのような過酷な山に現代では考えられないような貧弱な装備で挑み、少なくとも8600メートル付近までは登ったとみられています。(1924年6月8日)当時38歳のマロリーは22歳のパートナー、アーヴィンと供にエベレスト頂上直下270メートル付近を登っているところを、遠征隊のメンバーであるノエル・オデールによって目撃されています。やがて2人は、雲に包まれて見えなくなり、その後、完全に行方不明となりました。マロリーがエベレスト登頂を果たしたかどうかは、世界の登山史上最大の謎となり、それは現在でも明らかとはなっていません。


(1999年)マロリーを捜索するプロジェクトが発足し、その登山隊が、エベレストの標高8160メートル付近で真っ白に凍りついたマロリーの遺体を発見します。マロリーの遺体は低温によって保たれ、遺体はそれほど損傷してなかったものの、足や助骨には骨折が見られ、また額の頭蓋骨が大きく破損していました。この頭部の損傷が、致命傷でありました。マロリーは日没後に下山を開始し、その最中に足を踏み外して滑落死したものと推測されています。マロリーの遺体からは高度計・イニシャルを縫いこんだスカーフ・手紙数通・ポケットナイフ等が出てきたものの、残されていた遺留品の中に、マロリーが頂上に置いてくると言った妻の写真や、登頂の証拠となりうるコダックのカメラは発見できませんでした。また、この調査ではアーヴィンの遺体は発見できませんでした。


マロリーとアーヴィンは登頂は果たしたものの、下山中に遭難をしたという説があります。しかし、イタリアの著名な登山家、メスナーは、エベレストにはセカンドステップと呼ばれる難所があり、それを当時の装備で越えるのは不可能であるとして、マロリーのエベレスト登頂を否定しています。例えマロリーが登頂に失敗していたとしても、その勇気と意志は称賛に値するものでしょう。まだ、誰しもが足を踏み入れていない、そして、どこよりも高い山、エベレストに挑戦するのは並大抵の人間には出来ない事であります。私個人は、マロリーは登頂を果たしていたと思っています。貧弱な装備であっても、彼の意志と能力、そして、友人であるアーヴィンとの絆があれば、不可能も可能にしたのではないかと。はたして?答えはヒマラヤ最高峰の雪の中に埋もれている・ ・ ・


マロリーとアーヴィン

マロリーは洗練された風采をしており、モデルを頼まれる事もあった。登山家としても卓越した能力を持っており、山に向かって足を運ぶその軽快な足取りは、誰にも真似できないものだった。だが、もっとも優れていたのは彼の魂であった。彼の意志力は尽きる事がなく、何かやるべき事があれば、何時でも行動に移す用意があった。誰よりも早く行動し、夜も空けきらない早朝に出発する事も度々であった。マロリーは愛すべき人格の持ち主であったが、せっかちで、行く先々で所持品をばら撒いていくという欠点もあった。マロリーは過去2回、エベレスト遠征隊に加わって、登頂に失敗している。この3度目となるエベレスト挑戦時、マロリーはもうじき39歳となる年齢であり、肉体的にもこれが最後の機会である可能性が高かった。それに彼は、このエベレスト登頂に人生の意義を見出していた。そのため、彼は並々ならぬ決意でエベレストに向かっていった。


アーヴィンは生来の冒険家であり、高い理想を抱く好青年だった。まだ22歳になったばかりの若者だったが、肉体的にも精神的にも大人であり、シェルパに対しても礼儀正しく接していた。1924年の第三次遠征隊の中では最年少でありながら、常識心に富んで、若さゆえの生意気な行動を取る事はなかった。年長者の中にあって控え目な態度を取りながらも、大人として行動しており、皆が彼を尊重した。アーヴィンとマロリーは10年以上の年の差があったが、出会ってすぐに仲良くなり、マロリーの事をジョージと呼ぶほどの仲になる。マロリーは、エベレストへのアタック隊にベテランのオデールを選ぶという選択肢もあったが、このアーヴィンを指名している。これは、アーヴィンの若さ、体力、機械に対する知識、そして、2人の深い信頼関係を買ったものだろう。


マロリーとアーヴィンに関する逸話

2人を霊視したと言う人物の話によると、マロリーとアーヴィンはエベレスト頂上に達していた。だが、到着時間は非常に遅く、彼らは疲労困憊していた。闇が深まる中、2人は下山し始めるが、その最中にマロリーは滑落していった。アーヴィンは1人、下山を続けたが、ほどなくして疲れ果てて座り込んでしまう。そこにピッケルを置くと、酷寒と疲労でそのまま動けなくなった。アーヴィンは薄れ行く意識の中、マロリーの幻を見た。マロリーはこう言った。「さあ、出発しよう」と。そして、2人は旅立っていった。(1933年)第4次イギリス遠征隊によって、標高8570メートル地点でアーヴィンのピッケルが発見された。そのピッケルは、何事も無かったかのようにただ、岩の上に乗っていた。だが、そここそが2人の終焉の地であった。




YouTubu動画

ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦
http://jp.youtube.com/watch?v=gR0aWPQZa_0
ジョージ・マロリーの遺体
http://jp.youtube.com/watch?v=HhgIrl7NblM


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